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崖っぷちの転職活動

会社を辞める決断とその背水の陣の結果

投稿日:2020年2月29日 更新日:

最初の記事からだいぶたってしまいましたが、会社を辞めた後のその後のことについても書いてみたいと思います。

会社を辞める前に考えていたことは、「このままだとずっと下働きのままかもしれない」ということでした。
そして上司をみるたびに思うことは、「武器を何も持たずに年齢だけ重ねた自分の20年後の姿がこの上司なのか」ということでした。
だとすると、背筋が寒くなりました。
いつ、会社の都合で転勤になるか転属になるかさらには首になるか、いつもびくびくしながらさらに上の上司の顔色を伺いながら毎日を過ごしているように見えたのです。

会社にばかり頼っていて大丈夫なのか。

とても不安になる経験もしました。

体が資本というけれど

あるとき、そう、冬だったと思います。
割と高い熱が出ていたと記憶しています。
熱程度で仕事を休むとは言い出せず、いつも通り会社にいきました。
しかしどうも調子が良くないので、昼休みに近くの病院に行きました。

ふつうびと
「休めないので何か注射でも打って欲しいのですが」

そんな風にお願いした覚えがあります。

看護婦さんが「こんなに熱が高いのに休めないなんて可哀そうね…」と言っていたのを今でもはっきり覚えています。

そうだよな。熱があったら休むのが当たり前だよな。
なんで、自分は休めず、無理をしないといけないのだろうか。

診療室のベットであおむけに天井を眺めながら、点滴が一滴一滴落ちるのを待っていました。

その夜のことです。

急に全身に震えが起こって目が覚めました。
歯がガチガチ言うぐらいの全身の震えです。
こんなことは今までにありませんでした。

当時一人暮らしを始めたばかりで頼れる人もいませんでした。
ガチガチ歯を鳴らしながら救急車を呼びました。

そのまま入院となりました。
1週間ほど入院しました。

どうやら昼間に打った点滴が強すぎたのか、アレルギー反応が出たのかもしれないとの診断でした。

それ以来、二つの薬を飲むことが禁止になりました。

無理が祟ったのか、ストレスなのか分かりません。
たぶんストレスだったのでしょう。

なんとか体調が回復して会社に行くと、なんと転勤の辞令が出ていました。

会社は頼ってはいけない場所

本当にドラマのようなことがあるんだと愕然としました。

会社を休んで戻ると「椅子がない」なんてドラマの世界の話と思っていました。
それは現実にあるのです。
勤めていた会社がブラック企業だから仕方がないことなのか、ふつうに当たり前のことなのでしょう。
実際は、休んでいる社員がチームにいるために、自分の営業チームの成績がマイナス評価されることになる上司が、ワタシをチームから外したようです。

会社とはそんなものなのだと思いました。

体を壊したらそこでおしまい。さよならです。
変わりはいくらでもいるのです。

その時痛切に思ったのは、「このままではだめだ」ということでした。

変わりがいくらでもいる「人員」ではダメなのだと。
やはり、手に職を持っていないとダメなのだと。
専門職でなければ生き残れないのだと思ったのです。

実際、「入院したら転勤」ということが本当に許されることなのかということさえ分かりませんでした。
社会人としての常識的な知識が圧倒的に欠如していることに気が付きました。
会社でも契約書なども扱いはしましたが、実際は基本的な法律もチンプンカンプンでした。

これはもう一度勉強しなおさないといけないと感じたのです。

そして手に職を持つ必要性を感じたのでした。

仕事をしながら勉強する

「手に職を持つ=資格を取る」と割と短絡的に考えていたと、今となっては思います。
しかし、当時は若かったので独立できる資格を持てば大丈夫だろうと考えていました。
会社の自由にされる社員ではなく、会社から自由になることを考えたわけです。

選んだ資格は司法書士でした。
難関資格ではありますが、弁護士ほど雲の上の資格ではなさそうでした。

試験範囲が広く網羅的なので、時間さえかければ何とかなるのではないかと考えました。

また、学生時代に勉強をしていなかった分、自ら選んだことを勉強することに新鮮さを感じたものでした。

仕事をさぼりながら勉強時間を捻出していきました。

そしてある程度自身がついたところで、退職し勉強に専念することにしたのです。

なんとしても資格をとるために「背水の陣」で自分を追い込んだのです。
そして3年やってダメなら再就職すると決めたのです。
石の上にも3年。
3年やってダメなら石は温まらない。
そう考えて始めた3年間だけの浪人生活です。

そうは言っても勉強だけができる環境にはありませんでした。
食べていかなければならないので、昼は図書館で勉強し夜は学習塾でアルバイトという学生のような生活を送りました。

このときの年収は200万円以下だった思います。
収入は半分以下に減りましたが、節約をすればなんとか食べていくことはできました。
雇用保険をフル活用し年金も免除の申請をしました。

この時痛切に感じたのは、セーフティネットはしっかりしているものの年金や健康保険等の社会保険料の負担がかなり大きいんだなということでした。

やっと3年目に見えたこと

3年目にもなると模擬テストでもときどきA判定が出るようになりました。

A判定は合格可能性80%以上ということだったと思います。
全国模擬試験の結果で上位者一覧に名前も載るようになりました。

しかし、毎回の模擬テストで上位になるというところまでは行かず、
苦手な問題や手薄なところからの出題となると途端に合格ラインから遠のいてしまうのです。

ここら辺が一年に1回しかない一発勝負の試験のつらいところです。
アルバイトで浪人生活をしている身には来年またチャレンジするというわけに行かないのです。

  • これはなかなか厳しい世界かもしれないぞ。
  • これは最後は「運」かもしれない…
  • 運が悪ければもう1年待たなくてはいけないのか…
  • さらに1年学力を維持できるのだろうか…

3年目になってようやく気が付いたのです。

試験が終わった瞬間は今でもはっきり覚えています。

やりつくしました。

全力で取り組みました。

しかし、終わったことが分かりました。

時間が止まった感じでした。

受験生全員が退出しても机に向かったまま空中をぼんやり見ていました。

終わったわ。

苦手な分野が出題され、はっきりと不合格を確信したのでした。

ふつうのひとの背水の陣はふつうに失敗に終わったのでした。

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